安藤百福名言集!

 

安藤 百福(あんどう ももふく、1910年3月5日 - 2007年1月5日)

 

日本の実業家。チキンラーメンを開発・販売した。

日清食品(株)創業者。

【名言集】

 

発明はひらめきから。

ひらめきは執念から。

執念なきものには、発明はない。

 

 

 

事業を始めるときの成功を語るな。

失敗から考えろ。

 

 

 

新しいものを創造する力がなければ、

企業は存続できません。

 

 

 

即席めんの発明にたどり着くには、

48年間の人生が必要だった。

過去の出来事1つ1つが、現在の仕事に見えない糸でつながっている。

 

 

 

事業のヒントは周りを見渡せばどこにも転がっている。

事業化できないアイディアは単なる思いつきにすぎない。

本当のアイディアとは実用化されて、

成功を保証するものである。

 

 

 

事業を始めるとき、金もうけしようという気持ちはなかった。

何か世の中を明るくする仕事はないか。

そればかりを考えていた。

 

 

 

どんなに優れた思いつきでも、時代が求めていなければ、

人の役に立つことはできない。

【日清食品創業!チキンラーメンの誕生】

1946年(昭和21年)、大阪府南部の泉大津市で、失職中の復員兵を集め海岸に鉄板を並べ、海水を流して塩を製造する独特な仕方で製塩事業を行った。この事業を発展させる形で、1948年(昭和23年)には「中交総社」(のち「サンシー殖産」。現在の「日清食品」の母体)を設立した。

 

自伝『魔法のラーメン発明物語』等によれば、昭和20年代は深刻な食糧不足のため、アメリカ合衆国から送られた援助物資の小麦粉を用いた「粉食」(うどん、ラーメン、すいとん、ビスケット、パンなどの、様々な粉料理の総称)を厚生省が奨励していた。しかし結果論としてパン等が多いため、安藤は、東洋文化であるめん類をもっと奨励すべきだと厚生省課長に提案した。課長は、うどんやラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている実情を説明し、麺文化の振興には自ら研究してはどうかと奨めた。当時、安藤は既存事業から手を広げる余裕がなく、話が出たのみで終わったが、これが後にインスタントラーメン開発の契機になったという。

 

このころ、安藤はある信用組合から懇願され、その理事長に就任した。しかし1957年(昭和32年)、この信用組合が倒産し、無限責任を負っていた理事長の安藤は本体の事業を手放して負債を弁済することになり、大阪府池田市の自宅だけが安藤のもとに残った。この件に関し安藤は、自分はおだてには弱いとも述懐した。

その後、安藤は自邸の庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始め、1958年(昭和33年)8月25日にチキンラーメンを商品化することに成功した。どんぶりに入れて湯を注ぐだけでおいしく食べられる簡便な食品は、瞬く間に人気商品となった。

 

同年12月、会社の商号を「日清食品株式会社」に変更[1]。 会社の事業は順調に拡大した。信用組合倒産の際の借金返済の苦労を教訓として、安藤は無借金経営を社是とした。1963年(昭和38年)、日清食品は東京証券取引所2部および大阪証券取引所2部へ上場するに到った。

 

 

チキンラーメンの好評を見て、追随する業者が多く出た。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの商標や特許を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めた。日清食品は1961年(昭和36年)にチキンラーメンを商標登録し、翌年には即席ラーメンの製造法の特許を得る。この際、113社が警告を受けた。類似商法を看過しない姿勢を打ち出した安藤であったが、1964年(昭和39年)には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、製法特許権を公開・譲渡した。また、主婦連合会会長奥むめおの勧めで、商品に製造年月日を、食品業界として初めて記載した。 高度経済成長、大型スーパーマーケットの普及など、大量生産の加工食品が売れる条件が、そろっていたともいえる。